昭和40年01月03日 朝の御理解



 教祖金光大神の信心を二代金光様が、そして三代金光様が、そして現教主金光様がお受け継ぎになり、手続きの上においては椛目の場合、小倉、そして福岡、久留米、三井教会というように、教祖の神様のご信心が一貫して流れに流れてきておる。信心が流れてきておるという事は、おかげが流れてきておるとも言えるのです。ですから、教祖の信心を頂くという事、教祖のご信心を受けるという事。頂くとか受けるとかと、さあ、その頂いたとか受けたとかというただけではです、おかげにならんです。
 受けてそれを表していかなければならん。そこに私はおかげの著しい違いというものが出来てくると思う。信心を受けると、受けただけでそれを表そうとしない。おかげを受けて、受けたおかげを表そうとしない。これでは私はおかげにならん。椛目にご信心を頂かれた。教祖のご信心がそういうようなひとつの流れをもって、ここに流れてきておるその信心をです、私がどう表しておるかと。そこんところが椛目でご信心の稽古をなさる方達が受けて下さらなきゃならんところだと。
 そしてそれを表しておいででなければならんということになるんじゃないでしょうかね。椛目の信心を受けた。いかに受けたかてそれはもう受けただけじゃだめです。昨夜の御祈念に、久富勇さんの奥さんが頂いとられますように、『耳が肥えただけではなくて心も肥えなければ』とこう頂いとられます。ね。皆さんが、なら、ここで御理解を受けると。お日参りでもしとる方達は、もう私がお話をいたしますとです、先生が言うことはもう大体決まっとる。と言う程に、いうならもう耳が肥えとる。
 耳が肥えただけじゃいかん。ね。耳が肥えると同時に心も肥えなければ。心が肥えるために、今日受けて、それを表すという事がなされなければ心は豊かにならん。心が肥えん。お道の信心をいわば受けて、いわば詳しうなって、信心を、教祖の信心を、金光教の信心はこういう信心だということが、いかにです、観念的に、または抽象的に、頂いた神様ではいけん。現に、生に、頂いて、それに現に、生に現されていかなければ。華やかに現していけば、華やかなおかげが受けられるという意味ではないです。
 [梅のかおりを桜にもたせ、しだれ柳に咲かせたい]ま、これはもう一言で私はもう椛目の信心を言い表したような感じがいたします。私もだいたいが根が商売人ですから、もう本当に誰よりも派手です。まあ言うなら気障(きざ)です、信心が。けれども、その、気障な信心だけれどもです、お互いがです、なら、ここに現れている気障なおかげだけは素晴らしいと思うでしょう。ね。例えばここの元旦祭なら元旦祭のお供えが、幾かわりここに出されたかわかりません。皆さんが帰られてから。
 いうなら華やかなおかげであり、ま、いうなら気障なおかげなのですけれども、その気障なおかげが皆さん誰でも私は求めておるのじゃないかと思うんです。ですからその気障な信心しとるから、気障なおかげを受けておるというのじゃない、その内容としてです、しだれ柳の信心が、または梅の信心が私は段々なされていきよる。この三つがいわば調子をそろえていきよる。これが調子がおうていきよる。
 一の糸と二の糸と三の糸がきっちりおうて、初めて良い音色がでる例えば三味線の音色のようにです、どれが勝つこともなく、どれが低いこともなく、私はそこんところをいつも自分で思うのです。そこんところをいつも見極めさせて頂いて、調子が合わなければおかげにならんと思うです。ね。しだれ柳というのは、限り無く素直という事でしょう。風に逆らわない、ね、だから折れない。梅の香りというのは、信心辛抱から放つところの信心の香りでしょう。ね。
 辛抱しぬかせて頂いたものでなからなければ分からないもの。ね。ただの辛抱じゃ出来ん。ね。言わば辛抱せんですむような辛抱である。これが私は梅の香りのことだとこう思う。もう辛抱が有難い。ね。ああここの辛抱しぬかせて頂きゃ、神様はどげなおかげを下さるじゃろかというようなものがある。楽しみである。やっとかっとの辛抱じゃないのである。ね。そういうものがです、こうミックスされておる、椛目の場合。そこで気障とか華やかなところだけを見らずにです、ね、
 そういうところを一つ皆さん見習うて頂くなら見習うて頂かんならん、皆さんのものにして頂くならばそこんところを皆さんのものにして頂かなければいけないと私は思うんです。椛目の皆さんの合言葉のように、限り無く美しゅうならせて頂きましょうやと。まあ、本年もひとつとにかく本気で限り無く美しゅうならせてもらおうやと。本気で美しゅうならなければです、受けた信心を表すことが出来ん。頂いたおかげを表していくことが出来ん、表現していくことが出来ない。受けただけ。
 ですからももう後から教祖の神様のご信心がです、二代様を三代様を四代様を通してです、私の手続きを通してから流れに流れきたっておるところのその信心を、おかげをです表さないからそこで止まってしまっておるね。信心は受けて表すものね。それをどう表していくかと。実意をもって表していかなければいけない。<しとはでとろ>というような意味あいでですか、いかに表したところでそれはいけません。内容にやはり柳の、そして梅の信心が内容として華やかに表現されていかなければいけない。
 だから華やかな、いうなら限り無いおかげがです、ね、流れに流れきておるところのおかげが受け止めることが出来るわけではないだろうかと私は思う。うんと儲からして頂いてから、うんと御用させて頂く。それではだめです。いかにもそれは良いようですけれどもです、ね、それではおかげになりません。ね。うんと、言うなら儲からしてもらわなければなりません。けれども、それがうんと儲からして頂くという事がです、ね、うんと御用させて頂くという事の内容が、只今のような実意を極めたものであり。
 桜の花と梅の花としだれ柳がです、渾然として一つになったような内容です。ね。私は今日、信心を頂くと、信心を受けると。受けただけで良かりそうなものだけど、信心を受けただけではいかん、頂いただけではいかん。これは物やら金やらだけの事ではありません。ね。受けた信心がです、実意をもってそれが表されていかなければいかん。生活の上に、またはお導きの上に。
 お導きということは、お導きというとちょっと違いますね。自分のおかげを受けた事を、人に実意丁寧に伝えていくのが神へのお礼と仰るような意味あいにおいての、表し、現れであります。ね。それがやはり自分自身が内容としてそれを持たなきゃならん。昨日熊谷さんが、ここでお届けをしとられました。吉井の駅から汽車の中で、もうなにかしらんけれども私の側にばっかり、こうまぎれつくようにしてから、詰めてきなさる人がある。何かその私に話しかけたいごたるようなもようである。
 そしたらその汽車の中でいろいろ話される事。あなたもご熱心なこと。こうして毎日お参りになりよるが、まあ実は私はその創価学会の人からもう本当にいやというほど勧められよると。本当に困り果てております。けれども創価学会だけには入りたくない。けれども金光様のご信心なら有難いということだから、金光様の信心ならさせて頂きたいというような気持ちがあるのですけれども。
 先日も私の隣が金光様の○○教会のご信者さんらしい。この頃から娘さんか誰か亡くなられた。あんたが金光様の信心すんなら助かっとるのに、金光様の信心せんけん助からんとち言うて隣の人が言わっしゃった。だからそういう親切があるなら、どうして私を金光様に導いてもらえなかっただろうかと思います、ちゅうてその熊谷さんに話されたそうです。あなた達の隣近所にそういう人がありゃせんでしょうか。
 本当に親切があるならば、導くという事はそりゃその、なら私を連れて参って下さいということになるならいざ知らずだけれども、連れてこんならんという意味じゃありません。金光様の信心の自分がおかげをうけたことのです、有難いということを折りにふれてです、機会を私は願わせて頂いて、私は伝えていくという事です。これが表していくことです。ね。教祖の神様はそれが神になるのぞとまで仰るですから。
 人に実意丁寧に自分がおかげを受けたことを人に伝えていく、表していくという事がです、それが神になるのぞとまで仰る。これは私はそういう自分がおかげを受けたことを人に伝えていくという事だけが神になるのではない。今日私が申しましたような内容をもったです、ね、梅桜柳のような内容をもったところのです、限り無く美しゅうならせて頂こうという所に焦点を置いてです、流れに流れ、それを受けに受け、それを表しに表していく。物に形に。ね。
 間違いのないところに、間違いのないところに表していくという事。それが私は神になるのぞということも言えるとこう思う。ね。この私は表し方なんだ問題は。皆さんここんところをです、今日の御理解のいうなら、みそはです受けて表すという事です。しかも間違いなくです、実意をもってです、表していくという事です。ね。
 信心が分かると、耳が肥えたと、なら同時に体も肥えていかなければならんという事。もし体が肥えてです、心が肥えてです、まいりましたならば家が私は肥えてくると思う。家が太ってくると思う。ハアー自分の信心は受けて表しよると思う。だから自分の心が肥えとると思うておるだけではつまらん。実際に自分の家の上に身の上にその太っておらなければ。ね。顔だけこうぶくぶく膨れちょる。
 ところが手足はこぉまか。ね。鏡見てから、こう自分の顔が膨れとるもんだけん、もう自分の肥えた、太ったと思うとるごたるけれども、それが本当なもんではない、言わば水膨れの証拠にです、手足が小さい。そういう肥え方があるはずがないのです。手足も体も顔も、一緒に一様に、太っていくものじゃ、足ろうたものじゃなからにゃいかん。それには一つ足ろうた信心をさせてもらわにゃいかん。
 椛目でおかげ頂くならばです、柳の信心が欠けておらんかと、梅の信心が欠けておらんかと。桜の信心はです、これは皆が願わんでも頼まんでもです、頂きたいという願いは持っておるのですから。ねえ。梅と柳のところに私はいよいよ焦点を置いて信心を進めていかなければならない。そしてそれをです、私がどういうふうにそれを受けて私が表しておるかという事をひとつ皆さん、分かって頂きたいとこう思う。ね。
 そこに教祖の神様、そして二代様と、三代様、四代様、そして手続きをもって流れてきておると。その例えば中間にもです、たくさんいろいろあるんですよ。ね。けれどもです受けておられんのです。流れてきておるのですけれども受けておられんのですけれども、いうならどうでしょうかね、もうどんどんどんどん流れてきておるのに、これにいぃぱい入っておるわけですよ、いつも。表しよらんわけです。だから上からじゃぶじゃぶ越していきよるような感じですね。
 おかげ受けてない例えば人とか教会が、もし私のその中間にあるとするならば。ただ受けることだけはじゃぁじゃぁと受けよるけれどもね、これを表していこうとしない。まあいうなら椛目の場合はです、受けていきよる。それがその足ろうて、これが表されていきよる。そこに限り無く無尽蔵にです、受けていくことが出来、そして表していくことがいよいよ出来るということになるのじゃないかとこう思うんですね。
 椛目の信心は夕べの御理解から感じますのに、なんですかね、信心が堕落すると、楽な信心、なんとはなしに。朝参りしよるから、しゃんとした信心しとるとだけは言われません。この元旦の朝の御祈念がすんでからでした。ある方が参ってまいりました。御神米をさげさせて頂いてから、ここで御祈念をさせてもらいよったら、『暁修業』(あかつきしゅぎょう)と頂いた。『暁修業』。
 その『暁修業』というのがですね、「しゅう」は修行の「修」ですけれども、「ぎょう」が「業」(わざ)という字。仕事のわざ。普通は彳(ぎょううにんべん)のこれですね。『暁修業』。そうしたら、「先生、それと同じようなお夢を今朝から頂きました」と言うんですねその人が。この暁の修業のこのここんところをひとつ、今年はいよいよ焦点置かなきゃいけませんよ。ね。
 所謂修業です。その仕事そのままが行なんです。そこにたとえば只今申しますような柳と梅のような信心修行が出来ます。そこからそのたとえばその人が大きな事業をしとりますけれども、その事業の場からです現れてくるもの。生みなされてくるもの。それが今年の椛目の信心にです、ね、表現されて、現れていく、繋がっていくというところまで、その人がそれが分かった時にです、私は本当の『暁修業』の神意というものが、この事だったと分かるだろうと私は思うんです。ね。
 椛目の方達は非常にその、なんというですか、地味豊かなものがあります。ね。いうならもうそのかわり雑草でもすぐ生えるです。だからお気付けも非常によく頂かれる。もうお気付け頂かんごたる信心ならつまらん。昨日です、実は私はもう本当に、こっちの心が冷とうなってしまうような、その冷たい人のその在り方というかね、それを見せて頂いたんですね。そしたらその神様がね、他の事で信心が、こんなこっちゃいかん。こんなこっちゃいかんと堕落していくなら、お気付けを下さるけれどもね、心が冷とうなっていくのにはね、お気付けのやりようがないと仰るですよ。
 心のつめたい人は。『めっぷう』と頂きました。あの手紙に書くでしょう。めっぷうする。ね。所謂糸偏にこう書いてあるね。糸は神様との繋がり。それがめっする、なくなる、しかも封じこまれる。ですから、そういう人はお気付けも頂かんから、冷たくても平気ですよ。ね。けれども情はある。豊かである。けれども信心がその雑草が生えやすい。そういう椛目の、まあ、長所なり欠点なりというのがあるようですね。ですからその雑草を取らせて頂くというところにです。
 本気で焦点を置かせて頂いてです、今日私が申しますような内容からですね頂いていったらいいと思うです。ね。そしてから、様々な形においてです、それが受けて表されていくところのおかげを頂いて、限り無いおかげを頂き、限り無い表現が様々な形によって出来ていくおかげ。ね。今年はそういう信心を神様が要求しておられます。そういう信心を求めておられます。ね。そこに限り無い力も又頂けれるお年柄ということにもなるわけですから。おかげ頂かにゃいけません。